「関ヶ原の戦い」に敗れ出家した広瀬兵庫助は、「本能寺の変」直後に活躍した武将!!

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】  

 

1.   長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示をするにあたり、2015年10月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、その内容は伝聞に基づき記述された文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者(S大学のO名誉教授)・学芸員(O氏)などの仮説と推定に基づく一部誤発表となっていました。

      長浜城歴史博物館へは10年ほど前から情報提供しているにもかかわらず、広瀬兵庫助の直伝の情報を無視の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。

      広瀬家代々の直伝の史料を信頼していただきたかった。

 

  2.   一部誤発表となった理由は、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹部分(出身地・拝領の経緯・活躍の経緯など)に重大な誤認があります。

     誤発表により別人の人物像となっています。

長浜城歴史博物館に対しまして指摘(2015年12月)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容により長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で公開が続いています。

 

3.  長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示では、秀吉から広瀬兵庫助への文書2通が展示されましたが、広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いに敗れ、長男・太郎に宛てた手紙1通を展示していませんでした。

     私のブログでは、広瀬兵庫助・史料の解読に成功して解説付きで情報公開しています。

     (関ヶ原の戦いの戦記と形見の刀を譲与する経緯を記していますが、広瀬兵庫助の事績を熟知しないと理解できない短い手紙です)

 

  4.   広瀬兵庫助の子孫には、真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を多数・建立開基して寺院住職として代々にわたり寺院に関する過去帳(寺院における事績を時系列順に記録したもの)により、寺院一族の記録を伝承しています。

 

  5.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。  

    これが子孫の代々にわたり受け継がれているものです。400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。

     広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開しています。

 

  6.   長浜城歴史博物館の誤発表にもかかわらず、正しい情報と信じた歴史好きのブログ愛好家の投稿記事の好材料となり、誤認記事がインターネット上で拡散されており、大変に困惑しています。残念です。 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

 

    広瀬兵庫助の先祖は、岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(美濃国広瀬郷)広瀬一族の初代当主・広瀬康述です。

  兵庫助(命名時は康親で、秀吉の家臣となり広瀬兵庫助を名乗る)は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。

    広瀬家史料(広瀬兵庫助末裔に伝承の歴史資料の略称)を再確認のところ、広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟が先祖を同じくする一族(同族)にあたることが確認されました。

 

  この情報は、このたび広瀬兵庫助一族の皆様へ初めての重要な情報としてご報告するものであります。

 

   私は、広瀬兵庫助の事績について調査研究の当初におきまして、初代当主・康述の子孫で広瀬安周(別名・安近)が山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっていたことは承知していましたが、その後継を深く調査していませんでした。

  広瀬安周の子孫にあたる広瀬郷左衛門景房の弟の子孫が広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘という著名な人物を世に出していたことまで認識していなかったのです。

 重要な最新情報ご報告の詳細は次の通りです。

 

  1.   美濃国広瀬郷(岐阜県)の第14代当主・広瀬康平の時代に、康平の弟である広瀬安周(別名・安近)は山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっています。

  広瀬家史料には、安周の子孫が武田家臣から後に徳川家臣となり、更にその後、井伊家臣として仕官したことが明記されています。

  歴史上の人物で、この事績に該当するのは「広瀬郷左衛門景房」のみでありますので、これが決定的な事実であることをご報告するものです。

  私見ですが、「広瀬郷左衛門景房」は、広瀬兵庫助の活躍した時代より10数年後の歴史背景がありますので、逆算すると安周の孫か曽孫に当たると推測します。

 

  2.   複数の歴史書においても山梨県(甲斐国)における広瀬郷左衛門景房に関する事績として、武田家臣から後に徳川家臣となり、その後、井伊家臣として活躍していることが明記されています。

  結論として、岐阜県(美濃国)の広瀬一族情報と山梨県(甲斐国)の広瀬一族情報とが完全に一致しています。

    山梨県(甲斐国)の広瀬一族におかれても最新情報となります。

 

  3.   広瀬郷左衛門景房の弟で広瀬将監正直は、1673年に山梨県(甲斐国)から大分県(豊後国)へ移っています。

  広瀬将監正直の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟がいることで知られています。

  大分県日田市には、この地を中心に活躍した正直の子孫など・広瀬一族の活躍を伝える「廣瀬資料館」があります。 (文中・敬称略)

http://ameblo.jp/pvhu3515/

【誤認記事がインターネット上で拡散されており、 大変に残念です】

【誤認記事がインターネット上で拡散されており、 大変に残念です】

 

  1.   広瀬兵庫助に関する調査研究分析を重ねて40年以上が経過して、研究の成果は、ブログで情報公開しています。

 

  2.   長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示をするにあたり、2015年10月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、その内容は伝聞に基づき記述された文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者(S岡大学のO名誉教授)・館長(O氏)などの仮説と推定に基づく一部誤発表となっていました。

 長浜城歴史博物館へは10年ほど前から情報提供しているにもかかわらず、広瀬兵庫助の直伝の情報を未確認(無視)の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。

広瀬家代々の直伝の史料を信頼していただきたかった。

 

  3.   一部誤発表となった理由は、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹部分(出身地・拝領の経緯・活躍の経緯など)に誤認があります。

 誤発表により別人の人物像となっています。長浜城歴史博物館に対しまして指摘(2015年12月)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容により長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で公開が続いています。

 

4.  長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示では、秀吉から広瀬兵庫助への文書2通が展示されましたが、広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いに敗れ、長男・太郎に宛てた手紙1通を展示していませんでした。

 ブログでは、広瀬兵庫助・史料の解読に成功して解説付きで情報公開しています。(関ヶ原の戦いの戦記と形見の刀を譲与する経緯を記していますが、広瀬兵庫助の事績を熟知しないと理解できない短い手紙です)  

 

5.   広瀬兵庫助の子孫には、真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を多数・建立開基して寺院住職として代々にわたり寺院に関する過去帳(寺院における事績を時系列順に記録したもの)により、寺院一族の記録を伝承しています。

 

  6.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。

 これが子孫の代々にわたり受け継がれているものです。400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。

 広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開しています。  

 

7.   長浜城歴史博物館の誤発表にもかかわらず、正しい情報と信じた歴史好きのブログ愛好家の投稿記事の好材料となり、誤認記事がインターネット上で拡散されており、大変に困惑しています。残念です。

http://ameblo.jp/pvhu3515/

【広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史】

【広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史】

 

1.  広瀬兵庫助から直伝の兵庫助の事績「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「おき手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。

      兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。

 

2.  広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。

  これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。

  これが「広瀬家史料」です。「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つです。

  「広瀬家史料」は、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えているのです。

 

3.  広瀬兵庫助は、これまで無名の戦国武将でした。   広瀬兵庫助に関する事績は「豊鑑」「東浅井郡志」などの一部の文献に紹介されてきましたが、内容の核心部分や一部は伝聞や伝説による仮説や推定によると判断されるものがあり、直伝の事績「広瀬家史料」とは一部に相当かけ離れたものがあります。

  これは全くの誤認記事となります。

 

4.  広瀬兵庫助のリアルな歴史、それが「広瀬家史料」であり、①歴史的価値②現実的信用性等々の歴史的価値観の高い伝承記録です。

  これが「広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史」であり、【歴史家も知らない広瀬兵庫助の歴史】の由縁であります。

  広瀬兵庫助の歴史は、「広瀬家史料」のみぞ知るであります。 5.  過日、広瀬兵庫助に関する報道がありましたが、「広瀬家史料」とは異なる報道がされました。  

 やむを得ず「広瀬家史料」による広瀬兵庫助の生に伝えられた声(調査分析研究の成果)を公開し訂正させていただいています。

  今後も、「広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史」に基づいて正すべきは正して参りたいと思っています。 http://ameblo.jp/pvhu3515/

http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】

 

  1.   長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示をするにあたり、2015年10月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、その内容は伝聞に基づき記述された文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者(S大学のO名誉教授)・同館O館長などの仮説と推定に基づく一部誤発表となっていました。

 長浜城歴史博物館O館長へは10年ほど前から情報提供しているにもかかわらず、広瀬兵庫助の直伝の情報を無視の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。広瀬家代々の直伝の史料を信頼していただきたかった。

 

  2.   一部誤発表となった理由は、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹部分(出身地・拝領の経緯・活躍の経緯など)に重大な誤認があります。

  誤発表により別人の人物像となっています。長浜城歴史博物館に対しまして指摘(2015年12月)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容により長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で公開が続いています。

 

3.  長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示では、秀吉から広瀬兵庫助への文書2通が展示されましたが、広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いに敗れ、長男・太郎に宛てた手紙1通を展示していませんでした。

 このブログでは、広瀬兵庫助・史料の解読に成功して解説付きで情報公開しています。(関ヶ原の戦いの戦記と形見の刀を譲与する経緯を記していますが、広瀬兵庫助の事績を熟知しないと理解できない短い手紙です)

 

  4.   広瀬兵庫助の子孫には、真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を多数・建立開基して寺院住職として代々にわたり寺院に関する過去帳(寺院における事績を時系列順に記録したもの)により、寺院一族の記録を伝承しています。

 

  5.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。これが子孫の代々にわたり受け継がれているものです。

 400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開しています。

 

  6.   長浜城歴史博物館の誤発表にもかかわらず、正しい情報と信じた歴史好きのブログ愛好家の投稿記事の好材料となり、誤認記事がインターネット上で拡散されており、大変に迷惑しています。残念です。 http://ameblo.jp/pvhu3515/

http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

 

広瀬兵庫助の先祖は、岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(美濃国広瀬郷)広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫です。

兵庫助(命名時は康親で、秀吉の家臣となり広瀬兵庫助を名乗る)は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。

 

  広瀬家史料(広瀬兵庫助末裔に伝承の歴史資料の略称)を再確認のところ、広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟が先祖を同じくする一族(同族)にあたることが確認されました。

この情報は、このたび広瀬兵庫助一族の皆様へ初めての重要な情報としてご報告するものであります。

 

   私は、広瀬兵庫助の事績について調査研究の当初におきまして、初代当主・康述の子孫で広瀬安周(別名・安近)が山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっていたことは承知していましたが、その後継を深く調査していませんでした。

広瀬安周の子孫にあたる広瀬郷左衛門景房の弟の子孫が広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘という著名な人物を世に出していたことまで認識していなかったのです。

 

重要な最新情報ご報告の詳細は次の通りです。

  1.   美濃国広瀬郷(岐阜県)の第14代当主・広瀬康平の時代に、康平の弟である広瀬安周(別名・安近)は山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっています。

広瀬家史料には、安周の子孫が武田家臣から後に徳川家臣となり、更にその後、井伊家臣として仕官したことが明記されています。歴史上の人物で、この事績に該当するのは「広瀬郷左衛門景房」のみでありますので、これが決定的な事実であることをご報告するものです。

私見ですが、「広瀬郷左衛門景房」は、広瀬兵庫助の活躍した時代より10数年後の歴史背景がありますので、逆算すると安周の孫か曽孫に当たると推測します。

 

  2.   複数の歴史書においても山梨県(甲斐国)における広瀬郷左衛門景房に関する事績として、武田家臣から後に徳川家臣となり、その後、井伊家臣として活躍していることが明記されています。

結論として、岐阜県(美濃国)の広瀬一族情報と山梨県(甲斐国)の広瀬一族情報とが完全に一致しています。

山梨県(甲斐国)の広瀬一族におかれても最新情報となります。

 

  3.   広瀬郷左衛門景房の弟で広瀬将監正直は、1673年に山梨県(甲斐国)から大分県(豊後国)へ移っています。広瀬将監正直の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟がいることで知られています。大分県日田市には、この地を中心に活躍した正直の子孫など・広瀬一族の活躍を伝える「廣瀬資料館」があります。

(文中・敬称略)

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http://ameblo.jp/pvhu3515/

【広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述】  

【広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述】  

 

 兵庫助の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の地方豪族の家柄です。

 清和源氏の末裔と伝えられています。

兵庫助の先祖・広瀬康述は、鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与えられました。 

 広瀬兵庫助は、この美濃国広瀬郷広瀬村の出身です。   広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述は、1200年(鎌倉時代の初期)に大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)から美濃国(岐阜県揖斐郡揖斐川町)へ領地を移され、地頭となりました。当時は、険しい山を越えた山奥にある土地でした。

    1390年11月、広瀬康述の子孫・宗勝は美濃国小島合戦の功績で当時の将軍・足利義満から感状を拝受しました。

宗勝は飛騨国瓜巣(岐阜県高山市)を拝領し、この領地を支配する地位を授かりました。美濃国の広瀬一族は飛騨国広瀬郷に分家ができました。

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