「関ヶ原の戦い」に敗れ出家した広瀬兵庫助は、「本能寺の変」直後に活躍した武将!!

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【「広瀬兵庫助」同族の酒蔵がありました】

【「広瀬兵庫助」同族の酒蔵がありました】

 

(1)広瀬家に伝わる史料「真敬寺古文書」(1850年頃の広瀬家系図などが記録) には、『広瀬兵庫助末孫 中古は広瀬の酒屋なり。 今は広瀬半兵衛と申す』と、あります。 

 

(2)記述の「中古」は1700年代頃とみられ、「兵庫助子孫の酒屋」とは酒蔵(酒造業)と推定されます。 兵庫助の子孫で1850年頃に酒造業の「広瀬半兵衛」がいたという記録です。  

                                  

(3)真敬寺古文書の作成時期は 江戸時代の幕末に近い嘉永年間 (1,850年頃)とみられます。 真敬寺広瀬家の親族に、美濃国で当時としては大変繁盛していて有名な広瀬半兵衛が営む造り酒屋があったのです。

 

(4)「広瀬一族」に関する一般歴史書に「広瀬惟然」(俳人松尾芭蕉の門人=弟子)の記録があり、その実家は美濃国関(現在の岐阜県関市)の造り酒屋とあります。 年代的に一致する時期なので、広瀬半兵衛の酒屋と同族(先祖を同じくする一族)として認識していたと思われます。 http://ameblo.jp/pvhu3515/ http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】

【400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由】

 

  1.   長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示をするにあたり、2015年10月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、その内容は伝聞に基づき記述された文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者(S大学のO名誉教授)・同館O館長などの仮説と推定に基づく一部誤発表となっていました。

  長浜城歴史博物館O館長へは10年ほど前から情報提供しているにもかかわらず、広瀬兵庫助の直伝の情報を無視の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。広瀬家代々の直伝の史料を信頼していただきたかった。

 

  2.   一部誤発表となった理由は、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹部分(出身地・拝領の経緯・活躍の経緯など)に重大な誤認があります。誤発表により別人の人物像となっています。長浜城歴史博物館に対しまして指摘(2015年12月)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容により長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で公開が続いています。

 

3.  長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示では、秀吉から広瀬兵庫助への文書2通が展示されましたが、広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いに敗れ、長男・太郎に宛てた手紙1通を展示していませんでした。

  このブログでは、広瀬兵庫助・史料の解読に成功して解説付きで情報公開しています。(関ヶ原の戦いの戦記と形見の刀を譲与する経緯を記していますが、広瀬兵庫助の事績を熟知しないと理解できない短い手紙です)

 

  4.   広瀬兵庫助の子孫には、真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を多数・建立開基して寺院住職として代々にわたり寺院に関する過去帳(寺院における事績を時系列順に記録したもの)により、寺院一族の記録を伝承しています。

 

  5.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。これが子孫の代々にわたり受け継がれているものです。400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開しています。

 

  6.   長浜城歴史博物館の誤発表にもかかわらず、正しい情報と信じた歴史好きのブログ愛好家の投稿記事の好材料となり、誤認記事がインターネット上で拡散されており、大変に迷惑しています。残念です。 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助に関する長浜城歴史博物館発表と広瀬家史料との核心部分の相違】

 

    広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と長浜城歴史博物館発表との相違は、次の通りです。

 

1. 1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について

(1)広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。

 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とあり、在所とは実家(広瀬郷の2ヵ村)を指しています。

 美濃国広瀬郷(広瀬村・坂本村)が広瀬兵庫助の出身地(広瀬家当主が代々372年間受け継いできた領地)であることを秀吉が文書に記して証明しています。

広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。

  (2)広瀬2ヵ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬郷を構成する広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。

広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。

「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を拝領したということではありません。

 

2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について

(1)1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。

 広瀬家史料には「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。信長に明け渡された領地を拝領と発表するのは、呆れた話です。

  (2)広瀬家史料に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。

 信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。 広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はありません。父・康則(第17代城主)は信長の家臣に攻め落とされたのに、信長によって没収された領地を戦争功績もないのに次男・広瀬兵庫助が再び信長から拝領することは100%ありえないことです。

 後述の通り、1576年と1580年には信長軍と戦った記録があります。これを拝領したと発表しており、開いた口がふさがらない状態です。

  (3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。

 1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。  

(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。 そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

  (5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。

  (6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。

 当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

 

3. 広瀬兵庫助の出身地について 広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。

1624年3月15日に66歳で死亡しています。

美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。

美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村が広瀬郷を構成していました。

飛騨国広瀬郷の広瀬家分家の出身との発表は誤りです。 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助に関する長浜城歴史博物館発表と広瀬家史料との核心部分の相違】

 

   広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と長浜城歴史博物館発表との相違は、次の通りです。

 

1. 1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について (1)広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。

 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とあり、在所とは実家(広瀬郷の2ヵ村)を指しています。

美濃国広瀬郷(広瀬村・坂本村)が広瀬兵庫助の出身地(広瀬家当主が代々372年間受け継いできた領地)であることを秀吉が文書に記して証明しています。

 広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。

  (2)広瀬2ヵ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬郷を構成する広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。

「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村です。

広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を拝領したということではありません。

 

2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について

(1)1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。

 広瀬家史料には「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。

 信長に明け渡された領地を拝領と発表するのは、呆れた話です。

  (2)広瀬家史料に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。

 信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。 広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はありません。

父・康則(第17代城主)は信長の家臣に攻め落とされたのに、信長によって没収された領地を戦争功績もないのに次男・広瀬兵庫助が再び信長から拝領することは100%ありえないことです。

 後述の通り、1576年と1580年には信長軍と戦った記録があります。

 これを拝領したと発表しており、開いた口がふさがらない状態です。

  (3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。

 1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。

  (4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。

 そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

  (5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。

  (6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。

 当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

 

3. 広瀬兵庫助の出身地について 広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。

 1624年3月15日に66歳で死亡しています。

美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村が広瀬郷を構成していました。

飛騨国広瀬郷の広瀬家分家の出身との発表は誤りです。 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【「広瀬兵庫助」同族の酒蔵がありました】

【「広瀬兵庫助」同族の酒蔵がありました】

 

(1)広瀬家に伝わる史料「真敬寺古文書」(1850年頃の広瀬家系図などが記録) には、『広瀬兵庫助末孫 中古は広瀬の酒屋なり。 今は広瀬半兵衛と申す』と、あります。

 

 (2)記述の「中古」は1700年代頃とみられ、「兵庫助子孫の酒屋」とは酒蔵(酒造業)と推定されます。 兵庫助の子孫で1850年頃に酒造業の「広瀬半兵衛」がいたという記録です。   

 

 (3)真敬寺古文書の作成時期は 江戸時代の幕末に近い嘉永年間 (1,850年頃)とみられます。 真敬寺広瀬家の親族に、美濃国で当時としては大変繁盛していて有名な広瀬半兵衛が営む造り酒屋があったのです。

 

(4)「広瀬一族」に関する一般歴史書に「広瀬惟然」(俳人松尾芭蕉の門人=弟子)の記録があり、その実家は美濃国関(現在の岐阜県関市)の造り酒屋とあります。

年代的に一致する時期なので、広瀬半兵衛の酒屋と同族(先祖を同じくする一族)として認識していたと思われます。

http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515

【広瀬家しか知らなかった広瀬兵庫助の歴史】 

【広瀬家しか知らなかった広瀬兵庫助の歴史】 

 

 広瀬兵庫助から直伝の兵庫助の事績「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「おき手紙」です。

  広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。

 この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。  

 広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。

 これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。これが「広瀬家史料」です。

  「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つです。「広瀬家史料」は、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えているのです。

    広瀬兵庫助は、これまで無名の戦国武将でした。広瀬兵庫助に関する事績は「豊鑑」「東浅井郡志」などの一部の文献に紹介されてきましたが、内容の核心部分や一部は伝聞や伝説による仮説や推定によると判断されるものがあり、直伝の事績「広瀬家史料」とは一部に相当かけ離れたものがあります。これは全くの誤認記事となります。 

  広瀬兵庫助のリアルな歴史、それが「広瀬家史料」であり、①歴史的価値②現実的信用性等々の歴史的価値観の高い伝承記録です。

  これが「広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史」であり、【歴史家も知らない広瀬兵庫助の歴史】の由縁であります。

 広瀬兵庫助の歴史は、「広瀬家史料」のみぞ知るであります。

    過日、広瀬兵庫助に関する報道がありましたが、「広瀬家史料」とは異なる報道がされました。

 やむを得ず「広瀬家史料」による広瀬兵庫助の生に伝えられた声(調査分析研究の成果)を公開し訂正させていただいています。

  今後も、「広瀬家しか知らない広瀬兵庫助の歴史」に基づいて正すべきは正して参りたいと思っています。 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助に関する情報共有、伝承活動、広報活動について】

 

  【広瀬兵庫助】に関する調査分析研究では40年以上になりました。

    誠に僭越ではありますが、この分野を限定して第一人者であると自負いたしますとともに、私を超えて広瀬兵庫助の先祖及び広瀬兵庫助とその末裔を調査分析研究した方は存在しないと承知しております。

 

  ところで、誠に恐縮ですが、私は高齢化が進んでおります。日々新規の投稿は気力と体力的にも続けることは少々困難の健康状態でございます。

 

   さらに、最近は広瀬兵庫助に関する研究の情報収集と進展がなく、情報の提供や広報活動が一巡する一定の期間の周期でデータをリサイクル更新するようにさせていただいております。 

 

    研究の進展や思いがかたまり新規に特別に公開したい情報などがありましたら、タイミングをみて投稿・更新をしています。

    このような次第でありますが、ご理解を賜りまして今後とも、よろしくお願いします。

 

    【広瀬兵庫助】の事績と活躍について、皆様とともに情報共有、伝承活動、広報活動を続けることにより、いにしえの広瀬兵庫助への評価が高まることを期待して頑張り続けています。

http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515