「関ヶ原の戦い」に敗れ出家した広瀬兵庫助は、「本能寺の変」直後に活躍した武将!!

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【長浜城歴史博物館「広瀬兵庫助」展示・誤解説での不誠実な対応に呆れています】

長浜城歴史博物館「広瀬兵庫助」展示・誤解説での不誠実な対応に呆れています】

 

  長浜城歴史博物館では「広瀬兵庫助」の展示公開(2015/11/11~2015/11/30)をされましたが、広瀬兵庫助の事績の核心部分(出身地・生い立ち・拝領経緯等々)は広瀬家代々にわたる直伝の生データとはかけ離れた全く別人の人物像でした。

  10年程前から同館O館長へは、私から直接に情報提供をしてきました。それにも拘らず、同館は文献(伝聞)中心で推定・仮説によるものを採用し、歴史学者(S大学O名誉教授)・O館長らによる文献崇拝の論理で公開されていました。

  早々に長浜城歴史博物館館長へ直接指摘(2015/12/11)しましたが、館長からは「検証には時間がかかる」との回答のまま1年以上を経過しても放置されたままで、同館のHP解説は訂正されていません。誤解説は早急に削除していただきたいと願っています。

広瀬兵庫助本人しか知らない歴史を検証するには、本人からの直伝(個人史)しかないことをご認識頂きたいと思っています。

 

  ところで、直伝(個人史)の好例ですが、『アンネの日記』は第二次世界大戦の最中のドイツによる占領下のオランダのアムステルダムが舞台となっています。

 ドイツによるユダヤ人狩りを避けるために咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活をアンネが記した日記です。『アンネの日記』(個人史)がなければ、8人のユダヤ人達のリアルな生活は再現されませんでした。

  これまで無名の戦国武将『広瀬兵庫助』でしたが、正しい人物評価は広瀬兵庫助からの代々直伝のリアルな記録「広瀬兵庫助史料」を活用しなければ、その人物像と存在価値は定まらないものです。

 その価値観は『アンネの日記』(個人史)と変わらないものがあると考えます。

 広瀬家代々の寺院(東本願寺所属)で直伝の広瀬兵庫助史料の詳細の内容は、これまで400年間の長期にわたり門外不出でした。

    広瀬兵庫助史料は断片的なものもあり難解な古文書「広瀬兵庫助史料」でしたが、40年以上に わたる調査・分析・研究と努力の末の成果として解き明かし、広瀬兵庫助の事績を導き出しました。 この成果を、近年ようやく最新版をまとめ上げましたので、私のブログで初公開をいたしました。

 これが世界に唯一の貴重な広瀬家しか知らない【広瀬兵庫助伝】です。

    さらに400年間の門外不出を破って初公開の理由は、同館の誤発表・誤解説とは知らず正しいと信じて、真面目な歴史家・郷土史家などの歴史愛好家の皆様がご自身のブログで取り上げていただく方が相当数おられます。

 同館の誤発表・誤解説状態が継続することは、広瀬兵庫助末裔に伝承される「広瀬兵庫助史料」を否定することになります。広瀬兵庫助の末裔としては全く耐えられない思いです。

  こうした事情から、これまでの経緯を一般の皆様へ諸事情をご報告いたしまして、長浜城歴史博物館の誤発表・誤解説を認めることはできないことを明言いたします。同館の不誠実な対応に呆れています。

 

    補足のご説明

長浜城歴史博物館における「広瀬兵庫助」展示解説の誤認について】 

  長浜城歴史博物館における「広瀬兵庫助」の展示解説(同館のホームページ掲載)によると、兵庫助のリアルな事績を子孫に直接伝える「広瀬兵庫助史料」の記述とは重要部分において異なる点があります。

 この誤報を正さないと、広瀬兵庫助の歴史の根幹部分が成り立ちません。

 

      【】内は当時の、広瀬兵庫助の年齢。

1.出身地を美濃国広瀬家の分家の飛騨国広瀬家とするものは誤りです。 「広瀬兵庫助史料」によると広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。

 これにより、飛騨国広瀬家を出身地とする説明ができません。

 

2.1572年6月13日【14歳】、兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められて、第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。

「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。

 これも、飛騨国広瀬家を出身地とする説明ができません。

 

3.信長の家臣に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。

 同館の解説では「兵庫助が信長から拝領した領地を秀吉が追認した」としていますが、「広瀬兵庫助史料」には兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・兵庫助が信長によって没収された領地を再び信長から拝領することは100%ありえないことです。

 兵庫助は、1 576年【18歳】と1580年【22歳】にも信長に対抗した行動の記録があります。 これは、信長に対抗している兵庫助に対して、信長から拝領することはありえないことを物語ります。

 

4.長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年【16歳】の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。

 1572年【14歳】の康則の討死落城から2年後の1574年【16歳】には落城による逃避先から美濃国広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。

 これは、兵庫助が美濃国広瀬家にいたことを証明し、飛騨国広瀬家の出身という説明はできません。

 

5. 1576年【18歳】に、兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月【14歳】の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。 

 さらに、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

1580年【22歳】にも、兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。

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