「関ヶ原の戦い」に敗れ出家した広瀬兵庫助は、「本能寺の変」直後に活躍した武将!!

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【広瀬兵庫助の祖父と父は大事件に直面】

 

 時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。

 戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。

 その実態は、頭角を表してきた守護大名(戦国大名のこと)の抗争の影響を受けて、守護大名と地頭からの二重支配(年貢の二重徴収など)の状態となりました。

 その結果、重税と過酷な労働に不満をもつ百姓を中心とした抵抗勢力の動きが活発となり、一向一揆(浄土真宗の信者の一揆、この宗派のことを他の宗派は一向宗といった)といわれる権力者に対抗する動きが全国各地に広がっていました。

 当時の一向一揆は、国人(地頭などの事実上の領主)や地方の土豪(その地の豪族)などが中心となり、守護大名から自治権を回復する為の抵抗運動が活発化していました。

 参考までに、この地域の当時の一向一揆戦国大名の動きなどをみてみましょう。

 享禄4年(1,531年)の一向一揆では、越前国(福井県) 守護大名の朝倉教景は敗れ、浄土真宗門徒側が多くの土地を占拠しました。

 天文元年(1,532年)には、山城国(京都府)の山科本願寺法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。天文2年(1,533年)には、摂津国(大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。

 天文3年(1,534年)には、北近江(滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。(世に言う下克上で、南北朝から戦国時代における下級階級の台頭傾向のことをいう)

 浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるいましたが、浅井長政(淀君=秀吉の側室=の父)は天正元年(1,573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡しました。

 

【最初の大事件】  天文3年(1,534年)の2月下旬(当時は旧暦の時代で、現在の暦では4月中旬にあたる)に、最初の大事件は起きました。

 康述の子孫にあたる広瀬彈正康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬郷の広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)第16代広瀬城主の時、康利の長男・康明(当時6歳)は広瀬村北村(北村に広瀬城がありました)の住人で百姓頭(農民の責任者)の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出されて監禁され、4日目に殺害されました。

 広瀬村北村の百姓たちは、地侍の立場にある城主の康利に対し長男・康明を人質に連れ出して、城主が百姓の先頭に立って一揆を起すよう要求したのです。

 城主・康利の判断が甘く守護大名(戦国大名)の抗争に巻き込まれることを恐れて、百姓の要求を受け入れないまま決断を思い悩んでいるうちに、幼い康明が殺害されたのです。百姓らの要求に対する回答期限の3日目を過ぎた4日目の早朝に殺害されました。

 広瀬郷の百姓たちは、最も地の利の良い(交通の便が良く経済圏として最も近かった)北近江の京極氏からの二重支配の触手に苦しんでいたのでした。

 ところが、この事件で事態は膠着状態のままとなったあげく、その年に京極氏は家臣の浅井氏に国を奪われ衰えたのです。

 京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の領地を奪うのが半年早く起きていたら、広瀬郷の城主・康利の長男・康明の殺害事件は無かったかも知れません。

 その後、越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏、近江国の浅井氏は、同盟を結び一時は落ち着きを取り戻したかと思われました。

 天文3年(1,534年)の2月(現在の暦では4月中旬)の事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機(第二の大事件)の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。

 それは、織田信長の覇業(武力で天下の支配者となる事業)著しい台頭(今まであった勢力に代わって新しく勢力を得て進出してくること)だったのです。

 また、一時は衰えたかにみえた京極氏は、浅井氏との政略結婚を重ねて、京極高次(浅井長政の次女・お初=淀君の妹=を妻として迎えた)の時代に豊臣秀吉に仕えて再興しました。

 

 話は元に戻りまして、この事件当時、分地政策として兵庫助の祖父・康利は、城主とその家族の一部が別々の土地に住んでいました。

 城主家族の生命の安全を確保するために康利の長男・康明は美濃国の広瀬郷広瀬村に住み、次男の康則(当時3歳・兵庫助の父)を飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)に住まわせていました。

康則は将来の分家への婿養子含みで、分家の親族に預けられて養育されていたのです。

 この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。

 事件当時の康則は、その名も「広瀬飛騨四郎康則」でしたが、この事件のあと暫くして美濃国広瀬郷広瀬村に戻り「広瀬左馬亟康則」と名乗り、父・康利の死後に「広瀬加賀頭康則」として城主(地頭職に就いた)となりました。

 この事件後の康利は、再び決断ミスを繰り返さないようにと行動していました。後に、康利の3人の孫(康利の次男で康則の子=兵庫助を含む3兄弟)が信長に対抗して一向一揆の活動支援のために本願寺のある大坂の石山に出陣したのは、こうした事情があったからです。

 祖父の康利からの「城主を支えてくれている領民の強い要望には適切に判断して、その要望に出来る限り応える事」という教えを守り「世のため人のため」に実行したのでした。

 この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。

 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。

 こうした中で、美濃国飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。  そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。

 城主・康則と家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。

 城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。

 この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託領地となりました。

 広瀬城が落城してから400数十年後の現状については、「城跡は現在田園になっていて、その一角に小さく盛り上がった塚のようなものがあり、誰もここは掘らないことにしています」(岐阜県百科事典)とあります。

 以上の通り、天文3年(1,534年)には祖父の康利が重大な危機に直面し、元亀3年(1,572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1,600年)には兵庫助も戦いに敗れ親子孫と三代続けて絶望のどん底に突き落とされましたが、必ず生き残るという強い心が運命を変えたのです。  http://ameblo.jp/pvhu3515/

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