「関ヶ原の戦い」に敗れ出家した広瀬兵庫助は、「本能寺の変」直後に活躍した武将!!

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】

 

広瀬兵庫助の先祖は、岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(美濃国広瀬郷)広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫です。

兵庫助(命名時は康親で、秀吉の家臣となり広瀬兵庫助を名乗る)は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。

 

  広瀬家史料(広瀬兵庫助末裔に伝承の歴史資料の略称)を再確認のところ、広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟が先祖を同じくする一族(同族)にあたることが確認されました。

この情報は、このたび広瀬兵庫助一族の皆様へ初めての重要な情報としてご報告するものであります。

 

   私は、広瀬兵庫助の事績について調査研究の当初におきまして、初代当主・康述の子孫で広瀬安周(別名・安近)が山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっていたことは承知していましたが、その後継を深く調査していませんでした。

広瀬安周の子孫にあたる広瀬郷左衛門景房の弟の子孫が広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘という著名な人物を世に出していたことまで認識していなかったのです。

 

重要な最新情報ご報告の詳細は次の通りです。

  1.   美濃国広瀬郷(岐阜県)の第14代当主・広瀬康平の時代に、康平の弟である広瀬安周(別名・安近)は山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっています。

広瀬家史料には、安周の子孫が武田家臣から後に徳川家臣となり、更にその後、井伊家臣として仕官したことが明記されています。歴史上の人物で、この事績に該当するのは「広瀬郷左衛門景房」のみでありますので、これが決定的な事実であることをご報告するものです。

私見ですが、「広瀬郷左衛門景房」は、広瀬兵庫助の活躍した時代より10数年後の歴史背景がありますので、逆算すると安周の孫か曽孫に当たると推測します。

 

  2.   複数の歴史書においても山梨県(甲斐国)における広瀬郷左衛門景房に関する事績として、武田家臣から後に徳川家臣となり、その後、井伊家臣として活躍していることが明記されています。

結論として、岐阜県(美濃国)の広瀬一族情報と山梨県(甲斐国)の広瀬一族情報とが完全に一致しています。

山梨県(甲斐国)の広瀬一族におかれても最新情報となります。

 

  3.   広瀬郷左衛門景房の弟で広瀬将監正直は、1673年に山梨県(甲斐国)から大分県(豊後国)へ移っています。広瀬将監正直の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟がいることで知られています。大分県日田市には、この地を中心に活躍した正直の子孫など・広瀬一族の活躍を伝える「廣瀬資料館」があります。

(文中・敬称略)

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