400年間も門外不出だった「広瀬家伝」

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

源(宇野)有治・広瀬信親・広瀬加賀守康述を先祖とする広瀬兵庫助一族の調査の概要(仮説)

 源(宇野)有治・広瀬信親・広瀬加賀守康述を先祖とする広瀬兵庫助一族の調査の概要(仮説)

 

広瀬家に伝わる広瀬兵庫助関係史料(「広瀬兵庫助史料」とします)を基に、多数の関係文献と共に慎重に調査研究分析をいたしました。その調査の成果として先祖の出自概要(仮説)をまとめました。()内数字は生存期間で、実数字は生存年の記録があり、数字?は推定の生存年です。

 

1. 広瀬兵庫助は、清和源氏末裔と伝えられています。清和天皇の第六皇子から信親までの系図は『系図纂要』(1975年頃まで国会図書館にのみ所蔵が許された系図の最高権威書)の、「清和源氏の編」に清和天皇の第六皇子の「貞純親王(873?~916)」から「源有治(1139~1221)」(宇野太郎)、「信親(1160?~1230?)」(宇野孫太郎)までの系図が明確に記されています。源(宇野)有治の子が広瀬信親で、源(宇野)有治の孫が広瀬加賀守康述です。

 

2. 広瀬兵庫助史料には、「信親」に関して「大和国(奈良県)広瀬郷に居住、広瀬を氏とする」との記載があります。
広瀬兵庫助史料で「信親」は、信親(広瀬七郎)とありますが、宇野→広瀬に氏を変えたことは事実であり、権威書の『系図纂要』記載の氏号を併記して、『信親(宇野孫太郎→広瀬七郎)』と記述するのが分かりやすいと思います。

 「広瀬加賀守康述(1180?~1241?)」は、「信親」の子として明記されており、大和国(奈良県)広瀬郷から「美濃国(岐阜県)池田郡(後、揖斐郡)籠谷村(後、広瀬郷)に移封(領地替え)」とあります。広瀬兵庫助代々の末裔に受け継がれた直伝の広瀬兵庫助史料の記述は信頼できます。
尚、「広瀬康述」に関する一般歴史書の記述は他に諸説あり生存年代の不一致など信頼性に欠けるため、これらは除外します。

 

3. 広瀬加賀守康述に関する一般歴史書等の情報は、情報が少なく伝聞情報による歴史家等の推定仮説が原因で信頼性に欠ける内容です。その一例は、広瀬加賀守康述は源(木曽)義仲から美濃国広瀬郷の地を拝領したとありますが、拝領するまで何処に居て、義仲との関係や何の功績かなど示されておらず双方の生存年代も一致せず信頼性を欠きます。「・・・・・と言われる」などの根拠のない言い伝え伝説であり、これに類似する推測が多数です。

 

4. 広瀬加賀守康述の移封(領地替え)は、美濃国(岐阜県)池田郡(後、揖斐郡)籠谷村(後、広瀬郷)は超険しい山奥の地であり、鎌倉幕府の権力者から遠ざけるための島流しにも等しい左遷であると認識しています。
その背景は、康述の父・信親の三兄弟(信親・俊治・光治)による広瀬郷一族の当主後継者候補争いの結果と推測されます。それは超僻地への領地替えだったのです。当主後継者候補争いの結果もあり、康述を支援したのが宇多源氏系の佐々木源氏であったと推定しています。
初代・広瀬康述一族とその末裔は、その苦難にもかかわらず見事に息を吹き返して、その後の康述一族の活躍が次々と明らかになり、完全に全国各地で見事に復活しています。
第14代当主・広瀬康平の弟で安周(安近)の子孫が甲斐国(山梨県)で武田家臣となり、その末裔の活躍が顕著でありました。
この事実は、特筆すべき事柄です。

 

5.広瀬兵庫助史料では広瀬兵庫助は、広瀬加賀守康述一族代々の家紋「下り藤」を、秀吉家臣になってから秀吉ゆかりの「五三の桐」に変えたとしています。広瀬兵庫助(1558?~1624)は、第17代当主(城主)の広瀬加賀頭康則(1530?~1572)の二男です。

 

6.広瀬兵庫助史料の調査研究分析で痛感したのは、広瀬兵庫助は個人情報に関しては(戦国時代の生き残り策として一族以外に対しては)秘密主義者であったことです。その一例が、「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助は自らを戦死(1600.9.16)として位牌を祀らせて出家しています。出家し別人物の住職・西了となった事実を伏せて、広瀬一族には元家臣との婚姻のみを許し秘密を保持しました。この厳命が明治時代になるまで守られていました。明治時代になるまで、一族以外へ漏洩しなかった稀有な出来事です。 
広瀬兵庫助情報が「400年間も門外不出の武将の記録」であったことの裏付けでもあり、「広瀬兵庫助」に関する歴史書等では、広瀬兵庫助からの直伝情報とは異なる誤った伝聞による文献が出回っています。


これが「400年間も門外不出の武将の記録」(広瀬兵庫助伝)を初公開いたします必要性であり、その所以です。