源(宇野)有治・広瀬信親・広瀬康述を祖とする広瀬兵庫助

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【広瀬兵庫助伝】

                                                    【広瀬兵庫助伝】
世界で唯一の「広瀬兵庫助(戦国武将)伝」を公開しています
☆兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。
☆「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つで、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えます。広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。
【広瀬兵庫助の主たる経歴】
1.生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しました。清和源氏の末裔と伝えられています。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と時代の統治者から登用等の諸事情で名を変えています。
(3) 1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、信長家臣・稲葉一鉄に攻められ城主・康則は討死し落城しました。その後の2~3年間は一家離散状態となりました。
(4)これまでの調査で、広瀬兵庫助には①長男・太郎②次男・浄念③三男・善可の3人の兄弟がいました。太郎には子孫がいなかった。
 広瀬兵庫助の次男・浄念と三男・善可の子孫は、それぞれ真宗大谷派(東本願寺)の寺院住職を継承し広瀬兵庫助の伝記を残しました。
2.「広瀬兵庫助」の主な活躍について
(1) 1574年、兵庫助は羽柴秀吉長浜城築城に協力しています。
 その後「本能寺の変」(1582年)後に秀吉の家族の避難警護に尽力し家臣となり近江国新庄城主となりました。(500石の知行)
(2) 1583年に戦功で1500石の知行となり、美濃国広瀬城主も兼務となりました。(秀吉の亡くなるまでの約16年間に亘り城主を務めました)
(3)豊臣秀吉が死亡して2年後、石田三成の誘いで関ヶ原の戦い(1600年9月15日)に出陣しましたが敗戦し、翌9月16日に自らを戦死とし福順寺(滋賀県長浜市高山町)に位牌を祀らせました。
(4)2年間の修行後、1602年に福順寺(長浜市高山町)住職・西了となりましたが、家族と元の家臣以外には広瀬兵庫助は戦死したとして極秘とされ、子孫の婚姻も元の家臣関係者の子孫以外とは縁を結ばなかったのです。(これが明治時代初期まで続いたという記録があります)
【広瀬兵庫助の先祖・源有治(みなもとの・ありはる)との共通点】
1. 関ヶ原の戦いで敗れた兵庫助は、自らを戦死とし位牌を祀り住職・西了となりました。永遠の平和を祈願したのです。住職・西了として永遠の平和を願い、人としての大英断をしたのです。
2. 人としての大英断「永遠の平和」は、文字通り永遠の人類共通の課題です。広瀬兵庫助の大英断には何か感じるものがありましたので、兵庫助の先祖の事跡を個人別に徹底調査しました。
3. 共通の心をもつ偉大な先祖を発見しました。初代・広瀬加賀守康述[鎌倉時代初期の1200年に、大和国広瀬郷(奈良県)から美濃国広瀬郷(岐阜県)へ領地替えとなった]の祖父・源有治(宇野有治)です。
広瀬兵庫助の先祖・源有治は、平安時代末期の武人で、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)・治承の乱(1180年)に出陣しましたが、戦いに利がなく世の無常を感じ出家し83歳で永眠しました。
4. 広瀬康述(やすのぶ)の父は広瀬信親(のぶちか)で、康述の祖父が源有治(宇野有治)です。広瀬兵庫助の時代から、さらに400年ほど前の先祖です。
5. 源有治(宇野有治・1139年~1221年)は、時代が異なるものの広瀬兵庫助と同じく戦乱の世を憂い、出家して仏門に入り道場(寺院)を設けて念仏教化に励んだとの歴史書の記述があります。
6. 広瀬兵庫助の時代の関ヶ原の戦い直後の様子。豊臣(西軍)の残された家臣の状勢は、「再び戦いを-との企てを捨てなかった」という記録が残されています。しかし、生まれ変わったとする住職・西了は、余生を人の生きる道に役立ちたいとした決心を貫き、弟「了玄」の助言と協力を得て仏門に仕えました。
7.生まれ変わったとする住職・西了は、仏門に仕えて慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」と慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」には全く関与せず「永遠の平和」への道筋をつけました。
【広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述】
 兵庫助の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の地方豪族の家柄です。清和源氏の末裔と伝えられています。
兵庫助の先祖・広瀬康述は、鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与えられました。当時は、険しい山を越えた山奥にある土地でした。(現在の判断では左遷と推測しています) 
 1390年11月、兵庫助の先祖で広瀬康述の子孫・宗勝は美濃国小島合戦の功績で当時の将軍・足利義満から感状(領地の支配を認める文書)を拝受しました。宗勝は飛騨国瓜巣(岐阜県高山市)を拝領し、この領地を支配する地位を授かりました。美濃国の広瀬一族は飛騨国広瀬郷に分家ができました。
【広瀬兵庫助の祖父と父は大事件に直面】
 時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。
 戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。その実態は、頭角を表してきた守護大名(戦国大名のこと)の抗争の影響を受けて、守護大名と地頭からの二重支配(年貢の二重徴収など)の状態となりました。
 その結果、重税と過酷な労働に不満をもつ百姓を中心とした抵抗勢力の動きが活発となり、一向一揆(浄土真宗の信者の一揆、この宗派のことを他の宗派は一向宗といった)といわれる権力者に対抗する動きが全国各地に広がっていました。当時の一向一揆は、国人(地頭などの事実上の領主)や地方の土豪(その地の豪族)などが中心となり、守護大名から自治権を回復する為の抵抗運動が活発化していました。 
 天文元年(1,532年)には、山城国(京都府)の山科本願寺法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。天文2年(1,533年)には、摂津国(大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。
 天文3年(1,534年)には、北近江(滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。(世に言う下克上で、南北朝から戦国時代における下級階級の台頭傾向のことをいう)
 浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるいましたが、浅井長政(淀君=秀吉の側室=の父)は天正元年(1,573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡しました。
【広瀬一族の最初の大事件の詳報】
 天文3年(1,534年)の2月下旬(当時は旧暦の時代で、現在の暦では4月中旬にあたる)に、最初の大事件は起きました。
 康述の子孫にあたる広瀬彈正康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬郷の広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)第16代広瀬城主の時、康利の長男・康明(当時6歳)は広瀬村北村(北村に広瀬城がありました)の住人で百姓頭(農民の責任者)の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出されて監禁され殺害されました。
 広瀬村北村の百姓たちは、地侍の立場にある城主の康利に対し長男・康明を人質に連れ出して、城主が百姓の先頭に立って一揆を起すよう要求したのです。
 広瀬城主・康利の判断が甘く、守護大名(戦国大名)の抗争に巻き込まれることを恐れて、百姓の要求を受け入れないまま決断を思い悩んでいるうちに、幼い康明が殺害されたのです。
 事件の発端は、広瀬郷の百姓たちが最も地の利の良い(交通の便が良く経済圏として最も近かった)北近江の京極氏からの二重支配の触手に苦しんでいたのでした。
 ところが、この事件で事態は膠着状態のままとなったあげく、その年に京極氏は家臣の浅井氏に国を奪われ衰えたのです。
 京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の領地を奪うのが半年早く起きていたら、広瀬郷の城主・康利の長男・康明の殺害事件は無かったかも知れません。
 その後、越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏、近江国の浅井氏は、同盟を結び一時は落ち着きを取り戻したかと思われました。
 天文3年(1,534年)の2月(現在の暦では4月中旬)の事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機(第二の大事件)の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。
 それは、織田信長の覇業(武力で天下の支配者となる事業)著しい台頭(今まであった勢力に代わって新しく勢力を得て進出してくること)だったのです。
 また、一時は衰えたかにみえた京極氏は、浅井氏との政略結婚を重ねて、京極高次(浅井長政の次女・お初=淀君の妹=を妻として迎えた)の時代に豊臣秀吉に仕えて再興しました。
 話は元に戻りまして、この事件当時、分地政策として兵庫助の祖父・康利は、城主とその家族の一部が別々の土地に住んでいました。
 城主家族の生命の安全を確保するために康利の長男・康明は美濃国の広瀬郷広瀬村に住み、次男の康則(当時3歳・兵庫助の父)を飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)に住まわせていました。
 この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。
 事件当時の康則は、その名も「広瀬飛騨四郎康則」でしたが、この事件のあと暫くして美濃国広瀬郷広瀬村に戻り「広瀬左馬亟康則」と名乗り、父・康利の死後に「広瀬加賀頭康則」として城主(地頭職に就いた)となりました。
 この事件後の康利は、再び決断ミスを繰り返さないようにと行動していました。後に、康利の3人の孫(康利の次男で康則の子=兵庫助を含む3兄弟)が信長に対抗して一向一揆の活動支援のために本願寺のある大坂の石山に出陣したのは、こうした事情があったからです。 
 この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。
 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。
 こうした中で、美濃国飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。
 そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。
 美濃国広瀬城主・康則は家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。
 城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。信長により領地は没収されました。
 この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託(代官)となりました。
 以上の通り、天文3年(1,534年)には祖父の康利が重大な危機に直面し、元亀3年(1,572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1,600年)には兵庫助も戦いに敗れ親子孫と三代続けて絶望のどん底に突き落とされました。
【広瀬兵庫助は秀吉の長浜城築城に協力】
 兵庫助の父で広瀬城主の康則は1572年、信長家臣の稲葉一鉄の攻撃で討死・落城しました。2年後の1574年、兵庫助は信長家臣・秀吉の長浜城築城に協力しました。「本能寺の変」(1582年)直後に秀吉家族の逃避行に尽力し、秀吉の家臣として城主となりました。奇異な関係ですが戦国時代に秀吉から見出された広瀬兵庫助でした。 
【広瀬兵庫助とその兄弟】
 1572年の美濃国広瀬城の落城時、城主・広瀬康則は討死、康則には4人の男子がいました。長男・康宗は母の実家へ逃げて、次男・康親(後の兵庫助)は武家を頼り修行にでました。三男・了玄は、三井寺へ出家し修行。四男・九助は叔母の家へ預かりとなりました。
 1572年6月の広瀬城落城の時、康則には兵庫助を含む4人の男子がいましたが個別の主な行動は次の通りです。
【広瀬兵庫助とその兄弟】
1572年の美濃国広瀬城の落城時、康則の長男・康宗は左門九郎と名を変え美濃国徳山村へ逃げ百姓となり、落城3年後の1575年に帰郷しました。後に康宗は1576年・1580年と2度、弟の兵庫助、九助と大坂・石山本願寺に出陣しました。1600年の関ヶ原の戦い出陣後に西願の名で寺院住職となりました。
広瀬康則の次男・康親(後の兵庫助)は、武家を頼り武家再興の修行に出ました。康親(兵庫助)は、落城2年後の1574年に武家の屋敷を離れ、美濃国広瀬村へ帰り広瀬兵庫と名乗りました。
 1574年に広瀬村へ帰郷の兵庫助について日坂古文書には、秀吉が長浜城築城時の日坂村から土塀用大量竹材の調達で、秀吉は日坂の地侍・久賀宛の文書で「自領に良い竹がなく広瀬兵庫が沙汰する。大小によらず差し出すよう」命令したとあります。
 兵庫助は1574年、日坂村・久賀から竹を買付けて代金を支払い、調達の竹を長浜城築城現場まで輸送し納入。兵庫助は2年前に父・康則が信長家臣・稲葉一鉄により討死落城にもかかわらず、秀吉へ竹を納入し協力。8年後、秀吉家臣になるとは不思議な運命としか言いようがありません。
 兵庫助は1576年及び1580年と2度、康宗・九助の三兄弟で大坂石山・本願寺に出陣しています。
【広瀬康宗・兵庫助・九助らの出陣】1576年夏、康宗・兵庫助・九助の3兄弟は小殿乙若らの従者と大坂石山・本願寺の第11世顕如上人に拝謁、父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死の旨報告。顕如上人援助の一向一揆の抗争に本願寺の戦士として出陣、信長軍に対抗しましたが従者の内2人が戦死しました。
 1580年にも康宗・兵庫助・九助の3兄弟は大坂石山・本願寺へ出陣しました。1580年に大坂石山・本願寺織田信長の攻撃を受け焼失しました。その跡地は豊臣秀吉により1583年から3年をかけて大坂(明治維新から大阪に名称変更)城が築城されました。
【広瀬兵庫助と「本能寺の変」直後の活躍】
 広瀬兵庫助は、秀吉から次の通り功績を称えられています。
①甲津原文書=秀吉家族・避難警護(1582/6/19付)知行書500石(高山・甲津原・杉野)
②広瀬文書=戦争功績(1583/11/12付)知行書1500石(美濃国広瀬・坂本、近江国新庄・高山・甲津原・杉野)
 広瀬兵庫助は、「本能寺の変」(1582/6/2)直後に長浜城・使者からの要請を快諾し、秀吉家族を美濃国広瀬への避難警護のお世話をする予定でしたが、長浜城~甲津原へと来た所で旧知の寺院で約10日間の滞在をしていただき警護と逃避行の慰労に努めました。
 甲津原では、安全が確認されるまでの間、秀吉の家族(母・夫人・夫人の親族)の避難生活の寂しさを慰め、手厚くおもてなしと警護に努めました。
 幸いにも甲津原には、猿楽・楽人の家元が住んでおり秀吉・家族の慰労ができ、兵庫助は誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしました。
 広瀬兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったのです。
 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者が称名寺の性慶でした。その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶はと捕らわれの身となりました。
 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人・地頭・浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。
 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目しており兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。
 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。
【「本能寺の変」直後に広瀬兵庫助の活躍の詳報】
本能寺の変」直後の状況
 「本能寺の変」直後の状況については、史実に基づき東浅井郡志(発行:滋賀県東浅井郡教育会)などの書物や浄休寺寺誌など広瀬家の古文書に詳細に書かれています。その後の調査を含め、これらを総合的にまとめた内容は、次のとおりです。
 天正10年(1,582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」(京都の本能寺で織田信長の家臣・明智光秀の反乱による突然の攻撃で信長が負傷して自害した)が起きました。(当時は旧暦の時代で、現在の暦では7月中旬にあたります)
 この直後の状況は、2日の巳刻(午前10時)になって京都の本能寺での異変が、風の便りに信長の居城である近江国安土城滋賀県近江八幡市安土町=平成22年(2,010年)3月21日から近江八幡市〕に伝わってきましたが、はっきりとしたことは分からないまま時間がたちました。
 その日の未刻(午後2時) になって、ようやく京都の本能寺から寺の使用人の男達が安土城に駆けつけて実情を伝えたのです。城内は熱湯で手を洗うような驚きの騒ぎとなり、城の留守番役家老の蒲生右兵衛太夫は皆の動揺をしずめようとしましたが治まらなかったのです。
 2日の夜になって、美濃国(岐阜県)や尾張国(愛知県西部)出身の武将や武士たちが多数で安土城から逃亡を始めました。
 やっと、3日の卯刻(午前6時)になり、信長の夫人と側室(第二夫人)や子供たちが安土城から隣村の蒲生郡日野村(滋賀県蒲生郡日野町)に避難することができたのです。
 一方、羽柴秀吉の居城である長浜城に「本能寺の変」の知らせが入り、秀吉の母(なか)と夫人(おね)に伝わったのは、丸一日たった3日の朝のことでした。
 長浜城には、秀吉の母と夫人の他に秀吉の親族たちが身を寄せていました。そして秀吉の母(なか)と夫人(おね)を、夫人の兄・木下家定や夫人の姉の夫・浅野長政たちで警備護衛していたのです。
 ところが、今にも反乱者の明智光秀長浜城を攻める動きにある中で、秀吉は兵士とともに備中国(岡山県)の高松城攻めで不在のため、長浜城には攻撃に対応できる十分な警備護衛が可能な者は全くいなかったのです。
本能寺の変」直後の兵庫助の活躍
 この時、長浜城に罪人として軟禁されていた近江国小谷村(滋賀県長浜市)の称名寺・住職の子で性慶という僧の機転により、お城の留守番役たちは避難の援助を依頼するために、急いで使いの者を美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館へ馬で走らせて、兵庫助を迎えに行かせました。
 兵庫助は状況を理解し快く引き受けて、兵庫助が警護して治安が落ち着くまでの間、秀吉の母と夫人を長浜城から美濃国広瀬村へ避難していただくこととなったのです。
 急いで避難する人たちの一行は、秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)でした。当初の予定では、長浜城から美濃国広瀬村までの道中を兵庫助が警護して広瀬家の館へ避難することとしていました。
 3日の午前中に、一行は称名寺の性慶の先導により長浜城を早々に出発しました。秀吉の母と夫人は、下げ髪うちかけ姿で輿(長柄でかつぐ乗り物)に乗り、秀吉夫人の兄・木下家定は武士の正装をした裃侍姿でした。
 この時、木下家定には第4子の「秀秋」(3歳で秀吉の養子となった=後の小早川秀秋)がいましたが、7歳と幼く長浜城 城下町の総持寺(滋賀県長浜市)という寺院へ、供の家臣とともに預けられました。
 避難する人達の一行は、長浜城から上草野村岡谷(滋賀県長浜市)へと来た所で、広瀬村から急ぎ駆けつけた兵庫助と合流することができ、兵庫助は鎧武者の姿でお出迎えをしました。
 ここからは、兵庫助の警護のもとで七廻り峠、東草野村吉槻(滋賀県米原市)のルートで移動し曲谷(滋賀県米原市)に着いたのは、3日も陽の傾きかけた頃でした。
 ちょうど、この地に白山神社が祀られており、この神社で今後の安全祈願のご祈祷を済ませたのです。そうこうする内に辺りが薄暗く夕やみがせまる頃となり、この里人(村人)の長義という庄屋(村長)の計らいにより、一行の隠れ家として相応しい8畳ほどの岩屋(天然にできた岩間の洞穴)で避難の最初の一夜を過ごすこととなりました。
 翌4日になり、近江国甲津原(滋賀県米原市)に入りましたが、ここから目的地の広瀬村にたどり着くには5里(約20km)の遠い距離にあったのです。
 5里(約20km)といえば、平地を成人男性が徒歩で5時間位はかかる距離で、ここは厳しい山道であり女性の足では10時間以上はかかるとみられました。
 さらに、輿を降りて徒歩で辛抱峠(この辺りの人たちは新穂峠のことを、体力的にも精神的にも辛抱強く峠を越さなければならない事から、新穂峠に良く似た通称で辛抱峠と呼んでいた)のある険しい山を越えなければならなかったのです。険しい山道を移動するのは女性にとっては過酷な状況だと思われたからです。
 こうした様々な状況から安全な避難行動をとるための判断として、一行は甲津原にある兵庫助の知り合いの寺で暫くの滞在をし、兵庫助は警備護衛に専念することとなったのです。
 甲津原には、兵庫助の良く知る寺がありました。それは、8年前の天正2年(1,574年)に長浜の秀吉へ大量の竹を輸送した際に利用したルートに、この寺があったのです。兵庫助が美濃国の日坂村から近江国の長浜へ幾度も竹を輸送した際には、日坂村から辛抱峠(新穂峠)を越えて、この甲津原を通り長浜へ入いるのが最適なルートで慣れた道でした。
 当時は何回もこの寺に宿泊したことがあり、住職やその家族とは親しい付き合いのある寺でした。人生とは本当に不思議なもので意外なところで、お世話になった人間関係や経験が役に立ったのです。
 参考までに、交通手段が未整備であった古い時代において、寺院は宗教上の重要な役割の他に社会福祉への貢献として、現在でいえばホテルのような宿泊施設の提供もありました。
 そして、一行の身の回りをお世話するために、広瀬村の兵庫助の館へ使いを走らせて、この寺まで食料や身の回りの品を急いで運び込ませました。さらに、兵庫助の手助け役の人たちが駆けつけて、精一杯の手厚いおもてなしをすることとなりました。
 この日から安全が確認されるまでの約10日間、兵庫助は秀吉の母と夫人を猿楽(仮面をつけて、面白い言動をする古くからの芸能)などで避難生活の寂しさを慰め、手厚くもてなし警護に努めたのです。
 幸いにも甲津原には、以前に春日(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日)に住んでいた楽人(舞楽の芸能者のこと)で観世流(結崎流)の太夫(家元)が住んでおり、子孫が代々にわたり伎を伝えていたのです。こうして、兵庫助は「まじめに・こつこつ・一生懸命」「世のため人のため」と、誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしたのでした。
 ところで、兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったので、その辺りを解明してみたいと思います。
 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者(中心的な役割の人物)が称名寺の性慶でした。
 その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶は捕らわれの身となりました。その後、秀吉が長浜城を築城し、性慶は長浜城の牢屋に入れられていました。
 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人や地頭という領地の支配者、浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。
 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目していました。また、性慶は甲津原の寺の住職とは旧知の仲で捕われの身となる前に、この住職を通じて兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。
 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は捕えられてから10年が経過していたこともあり、長浜城では軟禁状態で多少の自由がありました。秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。
 性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。
 事態が落ち着いて後、性慶は秀吉によって罪が許され、晴れて長浜城の使用人となりました。
 その後、性慶は秀吉から天正18年(1,590年)に、秀吉の江北(近江国の北部地区)直轄領8万石の代官(封建時代の領主に代わる役人)を命じられました。

【秀吉から広瀬兵庫助への文書】 
 秀吉からは兵庫助宛に、「甲津原文書」と「広瀬文書」といわれる2通の文書が手渡されており次のとおり、その功績が称えられています。
(1)甲津原文書
天正10年(1,582年)6月19日付 知行書
 「本能寺の変」(天正10年(1,582年)6月2日)直後、秀吉の母(なか)と夫人(ねね)を近江国甲津原(滋賀県米原市)で、治安が安定するまで警護した功績によるものです。秀吉から兵庫助への安堵状と言われています。
[所付](与えられた領地と地位で、この領地を支配する地位と年収)
近江国東浅井郡高山(長浜市)         420石
近江国甲津原(米原市)           35石 
近江国杉野(長浜市木之本町)        45石
                    合計 500石
(2)広瀬文書
天正11年(1,583年)11月12日付 知行書
 賤ヶ岳の戦い天正11年(1,583年)]の羽柴秀吉柴田勝家との決戦で、この戦いで功績のあった家臣に対して領地を支配する地位が与えられました。この勝者の秀吉が織田信長の後継者として確固たる地位を築きました。
[所付](与えられた領地と地位で、この領地を支配する地位と年収)
美濃国広瀬村、坂本村(岐阜県揖斐郡揖斐川町
近江国新庄村(滋賀県米原市)
近江国高山、甲津原、杉野
                合計1,500石
【「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物として確認】
 「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物です。この根拠について、次の通り確認をさせていただきます。
1.「広瀬兵庫助」について
 広瀬兵庫助末裔に伝わる広瀬家史料に基づく調査結果は、次の通りです。
(1)1558年生~1624年3月15日、66歳で死亡しました。
(2)美濃国(岐阜県)広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男、親の命名による本名は広瀬康親です。
(3)主たる通称名は「広瀬兵庫助」。城主としては、「近江国(滋賀県)新庄城主・美濃国(岐阜県)広瀬城主 広瀬兵庫頭宗直」と史料に明記されています。
(4)関ヶ原の戦いで敗れた広瀬兵庫助は、自らの意思で関ヶ原の戦いでの戦死として「豊昌院理山道義大居士 広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせて、仏門に入り住職・西了となりました。
(5) 浄休寺寺誌などの広瀬家史料は、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭」の事跡を区別なく記述しており、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物扱いで明記し、兵庫助の代々の子孫には真実を正確に伝えています。
(6)仮に「広瀬兵庫頭宗直」が別人で関わりがなければ、広瀬家一族の事績を時系列順に記す広瀬家史料に、「広瀬兵庫助」とは他家の事績を記すことは全く意味のないことで、その必要はありません。これが確認をいたします重要なポイントであります。
2.「広瀬兵庫頭宗直」について
(1) 歴史書には「広瀬兵庫助」が活躍した同じ時代に、『飛騨国(岐阜県)高堂城主の広瀬山城守宗城(むねくに)の子(弟?)「広瀬兵庫頭宗直」がいた』とされますが、①宗城の子とする文献、②宗城の弟とする文献のそれぞれが複数存在しています。歴史上の人物の記述として、宗城の子か弟か明確でないことは、歴史書として基本的にありえないことであります。
(2) 『広瀬山城守宗城は、三木(後の姉小路)大和守自綱と戦い、宗城は戦死(1,582年1月27日)したが、兵庫頭宗直は行方不明となった』とあります。(東浅井郡志)→(事実は美濃国広瀬村の郷里へ帰ったのです)
(3)岐阜県揖斐川町の伝説によれば、『飛騨国の広瀬家は、美濃国の広瀬家の分家だという理由で、兵庫頭宗直は飛騨国を立ち去って、広瀬一族の先祖代々の墓地がある美濃国の広瀬村に移り住んだ』と伝えています。→帰郷したのが正しいのです。
(4)他の歴史書等に、その後「広瀬兵庫頭宗直」は、「井伊家に仕官した」という記事がありますが、井伊家について詳細に調査のところ徳川家臣で遠江国(浜松・井伊谷)に居住し、関が原の戦い(1600年)後に家康の命で彦根へ移っています。18年程の年代のずれがあります。→「井伊家に仕官した」も誤認記事です。
(5)彦根藩井伊家の全家臣団(283一族)を詳細に調査のところ、家臣団の中に広瀬姓は次の3家の一族がありました。
①広瀬郷左衛門(2000石)一族=郷左衛門は徳川家臣から井伊家臣になったとあります。郷左衛門が広瀬兵庫頭と誤認された可能性が高い。
②広瀬助之進(200石)一族。 
③広瀬清兵衛(180石)一族。
(6)結論として「広瀬兵庫頭宗直」に関して、井伊家の家臣に該当者が見当らず、「井伊家に仕官したという」事実はありません。
(7)以上のとおり、正確に事跡を把握していない「広瀬兵庫頭宗直」に関する歴史書記事の多くには、「生年・没年不明、金森長近への反乱に敗れて他国に逃れ行方不明」などの推定による誤認記事がみうけられるのが実態です。
【広瀬兵庫助と広瀬兵庫頭宗直は同一人物】解説
 また、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の伝説によれば、『飛騨国の広瀬家は、美濃国の広瀬家の分家だという理由で、兵庫頭宗直は飛騨国を立ち去って、広瀬一族の先祖代々の墓地がある美濃国の広瀬村に移り住んだ』と、伝えられています。→(事実は美濃国広瀬村の郷里へ帰ったのです)
 「東浅井郡志」には、「飛騨国治乱記などの様々な説に従って判断しても(兵庫助と兵庫頭宗直についての活躍した)年代が一致することは、(通称名までもが「兵庫」と一致しており)どうすることも出来ない事実です」と、書かれています。
天正10年(1,582年)1月27日(事件日:「東浅井郡志」は「飛騨国治乱記」から引用記述)、三木(後の姉小路)大和守自綱と戦い、広瀬宗城は戦死しました(実は、だまされて殺害された)が兵庫頭宗直は行方不明となった』と、あります。行方不明ではなく「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物です。
【広瀬兵庫助と広瀬兵庫頭宗直は同一人物】
 日坂古文書や各種文献にあるように、共に「広瀬兵庫」を若年時の通称名として名乗っていることから、「兵庫頭宗直」は「兵庫助」と同じ人物であると判断されます。(注:兵庫助は天正9年(1,581年)頃に、分家である飛騨国広瀬宗城の養子となり兵庫頭宗直を名乗ったとみられます)
 さらに、慶長5年(1,600年)9月15日の関ヶ原の戦い後に「兵庫助」は、観念寺(後に福順寺と改称=滋賀県長浜市高山)へ入り、自らの意思で戦死者として「豊昌院理山道義大居士 広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ住職により髪を剃り、位牌には「広瀬兵庫助」とせず「広瀬兵庫頭」と記入したことは、この2人が同一人物であることの証拠です。
【秀吉他界後の広瀬兵庫助】
 1598年に秀吉が死亡、2年後に関ヶ原の戦いとなりました。兵庫助は石田三成から出陣の催促を受け、鉄砲隊7百人を中心の約千人の大部隊で関ヶ原の戦いに赴きました。
 石田三成は兵庫助に買収金の慶長小判100枚を預け兵庫助・親族で日坂村(岐阜県)郷士高橋修理の説得を依頼。修理は「百姓を天職とするので、先祖の家訓に逆らえない」と誘いを強く断ったと伝えられています。高橋一族は戦争に巻き込まれず今も立派な家系が続いています。
 広瀬兵庫助の親族に徳山村(岐阜県)の徳山五兵衛がいました。五兵衛は徳川隊で戦いに勝利して、徳川家康から5000石を賜りました。石田三成から兵庫助が受け取ったという軍資金で黄金の鶏の伝説が残されています。関ヶ原の戦い後の兵庫助の行動が気になるところです。  
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い前】
関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士高橋修理の説得を依頼しました。修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。
【広瀬兵庫助と「関ヶ原の戦い」の詳報】
兵庫助は西軍・石田三成の誘いに応じ、1600年9月15日(新暦10月下旬)関ヶ原の戦いに出陣しました。東軍・徳川家康に内通の西軍・小早川秀秋は家康の大砲を受け東軍に寝返り、西軍は総崩れで敗戦しました。
関ヶ原の戦いの詳細は次の通りです。また、戦国の世とはいえ兵庫助の親族・徳山五兵衛は東軍で戦ったのです。
 慶長5年(1,600年)9月15日(当時は旧暦の時代で、現在の暦では10月下旬にあたります)の「関ヶ原の戦い」の状況は、卯刻(午前6時)に石田三成が率いる西軍10万人の軍勢と、徳川家康が率いる東軍7万5,000人の軍勢が、それぞれの陣に着いて対峙しましたが、辺りは深い霧に包まれていました。
 辰刻(午前8時)になって、ようやく霧が晴れて戦いが始まりました。初めは西軍が優勢で、東軍は劣勢に戦況が推移しました。その後しばらくの間、小競り合いが続き大きな動きはありませんでした。
 西軍の三成は、西軍側につくとしながら全く動かない小早川秀秋(秀吉の夫人の甥)隊を動かそうと、総攻撃を合図する狼煙をあげ、大きく戦況が動き始めようとしました。
 対する東軍の家康は桃配山に陣を構え、西軍側にいながら家康に内通しており、動きをみせない秀秋隊を東軍につかせようと揺さぶる作戦にでました。ついに、家康は午刻(正午)過ぎ、松尾山に陣取る秀秋隊へ大砲を撃ち込めと命じたのです。それまで、西軍につくべきか東軍につくべきかと動揺をしていた秀秋は、東軍からの砲撃に気が動転して東軍への寝返りを決意、戦いの形勢は一気に逆転しました。
 東軍が優勢になると、西軍からは東軍への裏切りが続出し始めました。西軍の島津義弘隊が独自の行動をとり、東軍の陣中を強行に中央突破して伊勢街道(国道365号)を桑名(三重県桑名)方面への脱出をはかると、ついに西軍は総崩れの状態となりました。
 未刻(午後2時)過ぎに、天下分け目の戦いは決着し、家康への忠誠を確固たるものとした東軍が大勝利しました。
 余談になりますが、兵庫助の親族で美濃国徳山村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に徳山五兵衛がおり、五兵衛はこの戦いで東軍の徳川隊として戦いに加わっていました。戦国の世とはいえ、親族が敵味方に分かれ戦わねばならないという現実がありました。
 戦い決し、関ヶ原から北国街道(国道365号線)を長浜方面へ向けて、命からがら逃げていく大勢の兵隊がいました。西軍の三成大将隊の部隊長を務めた兵庫助が率いる部隊です。西軍は途方を失って我先にと敗走し、三成の敗走を見とどけての同じ行動なのです。
 後日、三成は東軍側の追っ手により捕われの身となり、家康の命で処刑されました。
 兵庫助隊長は、負傷した仲間たちを心配しながらの敗走です。東軍側の追っ手を振り払いながら、その日のうちに新庄城へ立ち返り兵士達を休めて傷を治療 することとしました。だが、新庄城でゆっくりと休む暇はありませんでした。兵庫助は、これからどう生きていこうかと絶望のどん底でした。
 翌16日朝、近江国高山(滋賀県長浜市)の領地へ出発しました。
 その日の夕刻には、高山にある広瀬家の館へ到着しました。道中、兵庫助は「戦いに敗れたからには、明日からは生まれ変ることにする」と決意していました。早速、広瀬の館の隣にある観念寺(後に福順寺と改称)へ入り、自分を戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ、住職により髪を剃ったのです。 
 しかし、兵庫助は近江国高山に長く滞在することはできませんでした。美濃国の広瀬村に残した家族や村人のことが気になっていました。翌日、行く先を告げずに家臣とともに旅立っていきました。
 兵庫助の戦い後の2年の心の内を探ります。敗戦の失意を家族との交流で心を癒し、次の夢の実現に向けて着々と実行したことでしょう。隠した黄金の鶏等の軍資金の残りを掘り出して小判に替え安全な場所へ保管したのです。生き残りを賭けた今後の活動資金として重要な意味をもつものでした。
 兵庫助は剃髪し仏門に仕える身となりました。幼少から仏門に仕える弟・了玄(浄休寺開基)の助言と指導を受け、住職になるため約2年間の修行をしたのです。東本願寺・所属で福順寺の住職・西了として身も心も変身しました。いつしか戦う夢は仏門に仕え変心したのです。
 兵庫助の変心後の疑う余地のない行動は、軍資金を有効活用して「世のため人のため」の事業を推進しました。兵庫助の一族による寺院の建立・開基の実現に取り組み、後を子孫に託した。兵庫助は、戦乱のない安心して生活できる平和な世を夢みていたのです。 
【広瀬兵庫助は住職・西了に】
1600年の関ヶ原の戦いに敗れた兵庫助は、2年後の1602年に「永遠の平和」への祈りを目指して、東本願寺所属寺院で福順寺(滋賀県)の住職・西了として生まれ変わりました。元の領民(近江・美濃)と一族の繁栄を祈り続けたのです。その心は今も着実に受け継がれ息づいています。
【広瀬兵庫助が住職・西了となってからの記録】
広瀬兵庫助の記録は、1602年に福順寺(滋賀県)住職・西了として再出発後は残されていません。関ヶ原の戦いの戦死者として位牌を祀り意識的に記録を残さず仏門一筋で法灯を守ることに専念。兵庫助=西了が激動の人生を閉じたのは1624年で、66歳でした。
【「関ヶ原の戦い」後の兵庫助と、その一族】  
 兵庫助は、関ヶ原の戦い[慶長5年(1,600年)]で西軍に属して敗戦し、自分を戦死者とし一時行方不明となりましたが、2年後の慶長7年(1,602年)11月になって、元の家臣とともに元の領地である近江国高山(滋賀県長浜市)へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えたのです。兵庫助の空白の2年間における現実と心の葛藤は、新たに生きる道を探す旅「どん底からの脱出」だったのです。
 かつて兵庫助が城主だった近江国新庄村付近で、その子孫により仏教の布教を行った寺院は、浄休寺(滋賀県)、啓福寺(滋賀県)、光専寺(滋賀県)の三寺で、いずれも家紋は「五三の桐」としました。啓福寺は、後に真敬寺(岐阜県)、真念寺(岐阜県)、啓竜寺(滋賀県)を開基しています。
【広瀬兵庫助・末裔の後継者問題】
(1)兵庫助のひ孫「圓哲」は、1722年に真敬寺(岐阜県垂井町)を建立・開基しましたが、真敬寺4世と5世は2代続けて女子のみの誕生でした。
(2)真敬寺5世の娘・ハツは、兵庫助・末裔で浄休寺(滋賀県米原市)6世・了恵のひ孫・秀山を1831年に真敬寺へ婿養子として迎えました。
(3)真敬寺6世のハツは、古くさかのぼって祖先が同じであることを確認して(共に兵庫助を先祖とする)夫婦となったのです。
(4)江戸時代の幕末に真敬寺の後継者問題への取り組みとして、広瀬一族から婿養子を迎えるという、兵庫助一族の歴史に残る将来を見据えた行動がありました。
【「広瀬兵庫助」末裔の酒蔵がありました】
(1)広瀬家に伝わる史料「真敬寺古文書」(1850年頃の広瀬家系図などが記録) には、『広瀬兵庫助末孫 中古は広瀬の酒屋なり。今は広瀬半兵衛と申す』と、あります。
(2)記述の「中古」は1700年代頃とみられ、「兵庫助子孫の酒屋」とは酒蔵(酒造業)です。兵庫助の子孫で1850年頃に酒造業の「広瀬半兵衛」がいたという記録です。
(3)兵庫助に縁のある近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)に、「広瀬の酒蔵(酒造業)」が今も営まれていないかインターネット等で調査しましたが、現時点では見当たりません。
(4)「広瀬兵庫助」縁りの酒蔵(酒造業)が、何らかの縁者等によって酒蔵を継承し、縁の地で今も営みを継承・繁栄していることを願っています。
【広瀬兵庫助の末裔は、現代の広瀬兵庫助】 
 私が、広瀬兵庫助の末裔であることを認識したのは1975年頃で、父の実家・真敬寺(岐阜県)で発見された「真敬寺史料」に、兵庫助・末裔の系譜が記されていたからです。
 真敬寺第5世「大道」の娘「ハツ(兵庫助の啓福寺~真敬寺系末裔)」は、真敬寺へ入寺した「秀山(兵庫助の浄休寺系末裔=後の真敬寺第6世)」と結婚しました。秀山・ハツ夫婦は共に兵庫助の正統の子孫で、兵庫助の遺伝子(DNA)を増大する継承者となったのです。
 父は、1975年頃に先祖の「真敬寺史料」の系譜を調査したところ、私の母も兵庫助・末裔であることが判明したのです。両親は結婚してから約40年が経って、共に兵庫助の正統の子孫であることが分かったのです。 
【真敬寺7世:広瀬慈声のエピソード】
(1)京都の東本願寺に仕えた広瀬兵庫助の末裔・慈声は、毎週月曜日の早朝に真敬寺(岐阜県垂井町)から人力車で京都へ向かい、週末の金曜日に自坊へ帰るという単身赴任の生活でした。
(2)広瀬慈声は勤勉な読書家で、真敬寺から人力車で京都のご本山(東本願寺)への往復時には片時も本を手放さなかったと伝えられています。
(3)当時(明治時代初期)は鉄道が開通しておらず、長浜港経由で京都へ向かいました。真敬寺(人力車)→長浜港(舟)→大津港(人力車)→京都・東本願寺へと1日かけての出勤でした。
(4)広瀬慈声は、ご本山(東本願寺)において指導的立場で活躍しましたが、残念なことに病のため明治14年(1881年)に43歳という若さで他界しました。
【広瀬兵庫助・末裔の真敬寺第7世住職の広瀬慈声】
(1)真敬寺(岐阜県垂井町)第7世住職の広瀬慈声(じしょう)の両親(6世住職・秀山と6世坊守・ハツ)は、共に広瀬兵庫助が先祖になります。
(2)両親から兵庫助のDNAを受け継いだ広瀬慈声は、明治時代初期に若くして京都・東本願寺のご本山に仕え、仏教学研究と布教活動の指導的立場を務め活躍したと伝えられます。
(3)真敬寺7世:広瀬慈声の活躍により、真宗大谷派(東本願寺)と広瀬家との深い絆が確認され、広瀬兵庫助一族の事績の解明も進みました。

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作品名 : 【広瀬兵庫助伝】   著者名 : 広瀬まさのり