源(宇野)有治・広瀬信親・広瀬康述を祖とする広瀬兵庫助

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【[広瀬兵庫助]一族に関する年表】

【[広瀬兵庫助]一族に関する年表】

 秀吉の家臣「広瀬兵庫助」は関ヶ原の戦いで敗れ、真宗大谷派(東本願寺)寺院の住職・西了となりました。広瀬兵庫助の一族に関する歴史と関連する記事を年表にしてみました。

1100年代後期~1200年代初期
 広瀬兵庫助の先祖・広瀬康述(やすのぶ)の父は広瀬信親(のぶちか)で、康述の祖父が源有治(宇野有治)です。広瀬兵庫助の時代から400年ほど前の先祖です。

1139~1221年 先祖・源有治
 広瀬兵庫助との共通の心をもつ偉大な先祖。兵庫助の先祖・源有治(1139~1221年)は、兵庫助とは時代が異なりますが戦乱の世を憂い無常を感じ、出家して仏門に入り道場(寺院)を設けて、名を「聖空」と改めて念仏教化に務めました。

1156年・1159年・1180年 出家の「みなもと」
 広瀬兵庫助の先祖・源有治は平安時代末期の武人で、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)・治承の乱(1180年)に出陣しましたが、戦いに利がなく世の無常を感じ出家し83歳で永眠しました。
 兵庫助は、自らと同じ苦難の境遇に遭遇・出家した400年前の先祖:源有治(宇野有治)の存在を知らなかったが兵庫助も仏門に入り、人類共通のテーマに取り組んでいたのです。

1200年 先祖・広瀬加賀守康述
 広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述は、鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県)の地方豪族の家柄です。清和源氏の末裔と伝えられています。1200年に大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)から美濃国広瀬郷広瀬村へ領地を移され支配する地位(地頭)が与えられました。

1532年 證如上人(本願寺第10世)
天文元年(1532年)に、山城国(現在の京都府)の山科本願寺法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。

1533年 一向一揆
 天文2年(1533年)には、摂津国(現在の大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。

1534年 広瀬康明・殺害事件
 天文3年(1534年)の2月下旬(現在の暦では4月中旬)に、広瀬一族・最初の大事件が起きました。康述の子孫・広瀬康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬村第16代城主の時、康利の長男・康明(6歳)は広瀬村北村の百姓頭の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出され監禁、殺害されたのです。
 この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。

1534年2月の大事件は前兆
 天文3年(1534年)2月(現在の暦では4月中旬)の最初の大事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。

1534年・1572年・1600年 三代続けて絶望のどん底
 天文3年(1534年)祖父の康利が重大危機に直面、元亀3年(1572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1600年)には兵庫助も戦いに敗れ三代続けて絶望のどん底に。

1,534年後半 浅井亮政の下克上
天文3年(1534年)、北近江(現在の滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。

1558年生~1624年3月 広瀬兵庫助
 広瀬兵庫助は、1558年生~1624年3月、66歳亡。美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬)  広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男として生まれ、本名は広瀬康親です。
 

1572年6月13日 広瀬兵庫助の父・康則の落城
 兵庫助の父で第17代広瀬城主の康則には、1572年6月13日、広瀬家最大の危機が起きました。広瀬康則は家臣との不和により亡父・康利の老家臣・東野大助の謀略(信長家臣に内通)で、信長家臣・稲葉一鉄(第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に攻められ城主・康則(兵庫助の父)は討死・落城しました。康則(兵庫助の父) 42歳で亡。
 広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。
 城主・康則の長男・康宗は母の実家へ逃げて、次男・康親(後の兵庫助)は武家を頼り武家再興の修行に出ました。
 三男・了玄は、三井寺へ出家し修行中。四男・九助は叔母の家へ預かりとなりました。

1572年 江北10ヵ寺の一揆
 元亀3年(1572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者が称名寺の性慶でした。
 称名寺は信長の命で焼き討ちとされて、性慶は捕らわれの身となりました。性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1572年)は、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で討死・落城の年。
 
1500年代  戦国時代の広瀬一族
 戦国時代の広瀬兵庫助一族は地方の城主一族であったが、城主が討ち死にし、やむを得ず一家離散で逃亡生活と過酷な状況に追い込まれたのです。

1573年 浅井氏滅亡
1534年に京極氏の領地を奪った浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるう。浅井長政(淀君の父)は天正元年(1573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡。

1574年 広瀬兵庫と名乗る
 康親(兵庫助)は、落城2年後に武家の屋敷を離れ、美濃国広瀬村へ帰り広瀬兵庫と名乗りました。

1574年 秀吉の長浜城築城に協力
1574年に広瀬村へ帰郷時の広瀬兵庫助について日坂古文書(長浜城歴史博物館提供)には、秀吉が長浜城築城時の日坂村から土塀用大量竹材の調達で、日坂の地侍・久賀宛の文書で「自領に良い竹がなく広瀬兵庫が沙汰する。大小によらず差し出すよう」命令したとあります。

広瀬兵庫助が16歳の1574年、日坂村・久賀から良質の竹材を大量に買付けて代金を支払い、秀吉の長浜城築城の資材の調達し現場まで輸送して納入の協力をしました。(日坂古文書)

1575年 
1572年の美濃国広瀬城の落城時、康則の長男・康宗は左門九郎と名を変え美濃国徳山村へ逃げ百姓となり、落城3年後の1575年に帰郷しました。
 広瀬兵庫助の弟・九助(康則の四男)は、親戚で美濃国日坂村の郷士・高橋家に預けられ、1575年に広瀬村へ帰りました。

1576年夏 顕如上人に拝謁
1576年夏、康宗・兵庫助・九助の3兄弟は小殿乙若らの従者と大坂石山・本願寺の第11世顕如上人に拝謁、父・康則は、信長家臣・稲葉一鉄に討死・落城の旨を報告。

1576年・1580年 石山本願寺に出陣
 康宗・兵庫助・九助の3兄弟は小殿乙若らの従者と共に1576年・1580年と2度、大坂石山の本願寺顕如上人援助の一向一揆の抗争に出陣し、本願寺の戦士として信長軍と戦いました。1580年の抗争で敗れました。
 
1582年6月 「本能寺の変」直後と広瀬兵庫助の活躍
 天正10年(1582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」が起きました。
 直後の10数日間、兵庫助が警護し治安安定まで、長浜城から秀吉の母と夫人らの避難を援助し、伊吹の山中への避難警護と慰労に尽くして甲津原へと来た所で旧知の寺院で10数日間の滞在をして警護と逃避行の慰労に努めた。事態収拾後に秀吉からの恩賞をうけて家臣になりました。

1582年6月19日 広瀬兵庫助宛の知行書「甲津原文書」
 広瀬兵庫助は秀吉から1582年6月19日、秀吉から恩賞として近江国高山・甲津原・杉野の領地と報酬500石が付与。

1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」
 広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬・坂本、近江国新庄・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。

1590年
 称名寺の性慶は秀吉から天正18年(1590年)に、秀吉の江北(近江国の北部地区)直轄領8万石の代官を命じられました。

1598年 秀吉が死亡。

1600年
 関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士高橋修理の説得を依頼しました。
 修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。

1600年
 慶長5年(1600年)の初夏、兵庫助は近江国(滋賀県)佐和山城主の石田三成から出陣の誘いに応じ、鉄砲隊約7百人を中心とした約千人の部隊で関ヶ原の戦いに赴きました。

1600年9月15日 関ヶ原の戦い
 広瀬兵庫助は西軍・石田三成の大部隊で、1600年9月15日(新暦10月下旬)関ヶ原の戦いに出陣し敗れました。

1,600年9月16日 
 関ヶ原の戦いに敗れた広瀬兵庫助は、領地の近江国高山(滋賀県長浜市)・広瀬館の隣にある福順寺へ入り、「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ、住職により髪を剃って広瀬兵庫助を戦死者としたのです。

1600年
 広瀬兵庫助の親族に徳山村(岐阜県)の徳山五兵衛がいました。五兵衛は関ヶ原の戦いの徳川隊で勝利して、徳川家康から5000石を賜りました。

1600年以降
 関ヶ原の戦いで戦死の二人の元領主に対し近江国の民衆は、①広瀬兵庫頭・新庄城主②京極加賀守・長岡城主の戒名を列記、彦根城から鬼門の方角(北東)「大洞山上の祈願所」(滋賀県彦根市)に合祀し、永く英魂を弔った。

1600年~1602年 住職・西了に
1600年の関ヶ原の戦いに敗れた広瀬兵庫助は修行後・仏門に仕える身となりました。幼少から仏門に仕える弟・了玄(浄休寺開基)の助言と指導を受け、住職になるため約2年間の修行をしたのです。慶長7年(1,602年)11月に東本願寺・所属で福順寺の住職・西了として身も心も変身しました。

江戸時代初期 関ヶ原の戦い直後の情勢
 関ヶ原の戦い直後の情勢は、「徳川に怨みをもつ豊臣の残された家臣は、天下の情勢をうかがっており何か事が起これば、チャンスに便乗して再び戦いをしようとの企てを捨てなかった」という豊臣方の記録が残る。

1602年以後 住職・西了
 関ヶ原の戦いで1600年に死亡とし、1602年に福順寺(滋賀県長浜市高山)を終焉の地とし住職・西了として永遠の平和を誓い、記録を残さず仏門一筋で平和に過ごしたのです。

戦死とした「広瀬兵庫助」に関して、1602年に福順寺(滋賀県長浜市)の住職・西了となった事実は広瀬家及び家臣の一族を除き明治時代になるまで長年に亘り極秘にされていました。
 兵庫助(西了)の息子「浄念」と「善可」は、父の遺志を忠実に継いで真宗大谷派(東本願寺)の寺院の建立・開基に尽力しています。