源(宇野)有治・広瀬信親・広瀬康述を祖とする広瀬兵庫助

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。ブログの記事・画像の無断転載を禁止します。

【「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助から長男への超難解な手紙を解読】

【「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助から長男への超難解な手紙を解読】
 
広瀬兵庫助に関する古文書3点を所蔵するN氏(会社社長=東京在住)から同古文書3点の展示寄託を受けた長浜城歴史博物館は、2015年10月に「広瀬兵庫助に関する秀吉文書の発見」として同館館長のマスコミ発表を行い(広瀬兵庫助の出自についての同館誤発表の経緯は、私のブログで公開しています)、同年11月に同館では3点の内の2点を公開展示しました。公開しなかった残りの1点が、『「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助から長男への手紙』です。
 
この手紙は、兵庫助が長男の太郎宛に書いたもので、1600年9月15日の関ヶ原戦いに西軍として出陣して敗れた兵庫助が、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内)に在住する太郎宛へ書き綴ったものです。

実物は部分的かつ結論中心の短い文章で、難解な表現もあり容易には解読できない手紙です。40年にわたる兵庫助の調査研究分析に基づいて解明した分かりやすい解説も付け加えて、下記の通り判読しました。重大な決意をした広瀬兵庫助が、秘蔵の刀を形見として太郎へ譲ることを記した遺書を兼ねた戦記書簡です。(幼少の太郎へ伝えたい内容で、現実的には美濃国の妻への書簡とみなします)

私は、武門の家柄の生まれで刀を所持する立場になったが、刀で人物を斬ることは人として過ぎたることで、無常であると考えている。
刀工【正利(坂倉関)】(正利は、現在の美濃加茂市で活躍した室町時代末期の「美濃刀鍛冶」で伊勢国の村正の門人)に打たせ(広瀬兵庫助が美濃国出身で縁があり、美濃の刀工に発注した)、銘を入れさせて秘蔵(人を斬ることは無いと心に誓い)していました。 
 その後、図らずも秀吉公に巡り合うこととなり1582年には秀吉公の家臣となり、(不本意にも)数度の戦乱に出陣して多くの軍人を斬ってしまった。その数は不明です(誓に背き心が痛い)。 
 秀吉公の死後、美濃国広瀬城主・近江国新庄城主の任務は解かれて、秀頼公の馬回り役(上級家臣として主君側近の親衛隊)をしていた1600年の夏に、石田三成からの催促に応じて北山・根尾(美濃の山地名)等の野武士を駆り集め、関ヶ原の北野(岐阜県関ヶ原町北野神社付近)へ鉄砲隊700余騎を中心とした部隊を整えて、1600年9月15日(新暦の10月下旬)関ヶ原の戦いに西軍として出陣しました。
 午前8時ごろ少数の軍が入り乱れて戦いが始まり小競り合いが続いた。西軍の.旗色が悪くなった正午ごろになって、東軍の徳川家康に内通していた西軍の小早川秀秋(秀吉の妻おねの甥)隊が傍観したままでおり、これを動かそうと徳川隊から大砲が撃ち込まれた。
我を失った秀秋は東軍に寝返ると、戦況は大きく動き、西軍は秀秋の裏切りに途方を失って、我先にと退却したのです。 
退却する私の背後から、急に東軍の武士一騎が駆けてきたのに気づき、ふと振り返り逆に横に斬りつけ、偶然にも馬から落ちたのを見て鞍鞄を斬りつけ、武士の肩先を斬り返して逃れることができた。今日からは、「逆鞍の刀」と名付けて太郎に譲ることとします。 
 私は、これから大坂城に出向いて主君・秀頼公の無事を見届けることにしますが、(身の安全はなく)二度と無事に帰ることの無い我が命なので、この刀を別れの形見とします。
1600年9月16日  
                    兵庫(兵庫助は個人的な関係者へは「兵庫」を多用)
 
太郎殿へ
                                                        以上
 
補足解説①兵庫助は、手紙を書いた1600年9月16日に、自らを関ヶ原の戦いの戦死者として、近江国高山(滋賀県長浜市高山)の福順寺(広瀬の館の隣)において剃髪し位牌を祀らせています。
 この手紙は、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)広瀬の館に居る長男・太郎宛へ形見の刀と共に手渡されたものです。(緊急時で家臣により手渡されたと推測します。「主君・秀頼公の無事を見届ける」とありますが、実際は自らを戦死と装って身を隠すのが目的と推測され、秀頼公には会ってないと考察します。)
 
補足解説②兵庫助から約400年前の先祖・源有治(宇野有治1139~1221年)は、兵庫助とは時代が異なりますが戦乱の世を憂い 無常を感じ、出家して仏門に入り道場(寺院)を設けて、名を「聖空」と改めて念仏教化に務めました。兵庫助も戦乱で人を斬ることに無常を感じていたことは同じ一族血統のなせる心か?そして、修行から2年後の1602年11月、福順寺(滋賀県長浜市)へ元家臣と共に密かに入り、住職「西了」と改めて念仏教化に務めました。